芥川龍之介
底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:小浜真由美
芥川龍之介
二
三四日たつた、これも好い天気の日の事である。自分は午前の講義に出席してから、成瀬と二人で久米の下宿へ行つて、そこで一しよに昼飯を食つた。久米は京都の菊池が、今朝送つてよこしたと云ふ戯曲の原稿を見せた。それは「坂田藤十郎の恋」と云ふ、徳川時代の名高い役者を主人公にした一幕物だつた。読めと云ふから読んで見ると、テエマが面白いのにも関らず、無暗に友染縮緬(いうぜんちりめん)のやうな台辞(せりふ)が多くつて、どうも永井荷風氏や谷崎潤一郎氏の糟粕(さうはく)を嘗(な)めてゐるやうな観があつた。だから自分は言下(ごんか)に悪作だとけなしつけた。成瀬も読んで見て、やはり同感は出来ないと云つた。久米も我々の批評を聞いて、「僕も感服出来ないんだ。一体に少し高等学校情調がありすぎるよ」と、同意を表した。それから久米が我々一同を代表して、菊池の所へその意味の批評を、手紙で書いてやる事にした。そこへ幸ひ松岡も遊びに来た。松岡は我々三人が英文科に籍を置いてゐるのにも関らず、独り哲学科へはいつてゐた。が、勿論我々と同じやうに、創作もする心算(つもり)だつた。彼は我々の中で、一番久米と親しかつた。一しきりは二人で、同じ家に下宿してゐた事もあつた。それは砲兵工廠の裏にある、職工服を造る家だつた。実生活上のロマンテイケルだつた久米は、今にあの青い職工服を着て、アトリエのやうな書斎へ西洋机を据ゑて、その書斎を久米正雄工房と名づけたいなどと云ふ、途方もない夢をよく見てゐた。自分は彼等をその下宿に訪問すると、毎時(いつ)もかう云ふ久米の夢を思ひ出したものだつた。が、松岡はその時分から、余り職工服とは縁のない思想なり心もちなりを持つてゐるらしかつた。まだ感傷癖こそ脱しなかつたが、彼の中には宗教の匂のするものが、もうふんだんに磅※(「石+薄」、第3水準1-89-18)(ばうはく)してゐた。彼はその東洋とも西洋ともつかないイエルサレムの建設をもくろみながらキエルケガアドを愛読したり、怪しげな水彩画を描いて見たりした。当時彼の描いた水彩画の一つにさかさまにした方が遙(はるか)に画らしくなるもののあつたのは、今でもよく覚えてゐる。その後松岡は久米が宮裏へ移ると共に、本郷五丁目へ下宿を移した。さうして今でもそこにゐて、釈迦伝(しやかでん)から材料を取つた三幕物の戯曲を書いてゐた。
我々四人は、又久米の手製の珈琲(コオヒイ)を啜りながら、煙草の煙の濛々(もうもう)とたなびく中で、盛にいろんな問題をしやべり合つた。その頃は丁度武者小路実篤氏が、将(まさ)にパルナスの頂上へ立たうとしてゐる頃だつた。従つて我々の間でも、屡(しばしば)氏の作品やその主張が話題に上つた。我々は大抵、武者小路氏が文壇の天窓を開け放つて、爽(さわやか)な空気を入れた事を愉快に感じてゐるものだつた。恐らくこの愉快は、氏の踵(くびす)に接して来た我々の時代、或は我々以後の時代の青年のみが、特に痛感した心もちだらう。だから我々以前と我々以後とでは、文壇及それ以外の鑑賞家の氏に対する評価の大小に、径庭(けいてい)があつたのは已むを得ない。それは丁度我々以前と我々以後とで、田山花袋氏に対する評価が、相違するのと同じ事である。(唯、その相違の程度が、武者小路氏と田山氏とで、どちらが真に近いかは疑問である。念の為に断つて置くが、自分が同じ事だと云ふのは、程度まで含んでゐる心算(つもり)ぢやない。)が、当時の我々も、武者小路氏に文壇のメシヤを見はしなかつた。作家としての氏を見る眼と、思想家としての氏を見る眼と――この二つの間には、又自らな相違があつた。作家としての武者小路氏は、作品の完成を期する上に、余りに性急な憾(うらみ)があつた。形式と内容との不即不離な関係は、屡(しばしば)氏自身が「雑感」の中で書いてゐるのにも関らず、忍耐よりも興奮に依頼した氏は、屡実際の創作の上では、この微妙な関係を等閑に附して顧みなかつた。だから氏が従来冷眼に見てゐた形式は、「その妹」以後一作毎に、徐々として氏に謀叛を始めた。さうして氏の脚本からは、次第にその秀抜な戯曲的要素が失はれて、(全くとは云はない。一部の批評家が戯曲でないやうに云ふ「或青年の夢」でさへ、一齣一齣(いつせついつせつ)の上で云へばやはり戯曲的に力強い表現を得た個所がある。)氏自身のみを語る役割が、己自身を語る性格の代りに続々としてそこへはいつて来た。しかもそこに語られた思想なり感情なりは、必然性に乏しい戯曲的な表現を借りてゐるだけ、それだけ一層氏の「雑感」に書かれたものより稀薄だつた。「或家庭」の昔から氏の作品に親しんでゐた我々は、その頃の――「その妹」の以後のかう云ふ氏の傾向には、慊(あきた)らない所が多かつた。が、それと同時に、又氏の「雑感」の多くの中には、我々の中に燃えてゐた理想主義の火を吹いて、一時に光焔を放たしめるだけの大風のやうな雄々しい力が潜んでゐる事も事実だつた。往々にして一部の批評家は、氏の「雑感」を支持すべき論理の欠陥を指摘する。が、論理を待つて確められたもののみが、真理である事を認めるには、余りに我々は人間的な素質を多量に持ちすぎてゐる。いや、何よりもその人間的な素質の前に真面目であれと云ふ、それこそ氏の闡明(せんめい)した、大いなる真理の一つだつた。久しく自然主義の淤泥(おでい)にまみれて、本来の面目を失してゐた人道(ユウマニテエ)が、あのエマヲのクリストの如く「日昃(かたぶ)きて暮に及んだ」文壇に再(ふたたび)姿を現した時、如何に我々は氏と共に、「われらが心熱(もえ)し」事を感じたらう。現に自分の如く世間からは、氏と全然反対の傾向にある作家の一人に数へられてゐる人間でさへ、今日も猶(なほ)氏の「雑感」を読み返すと、常に昔の澎湃(はうはい)とした興奮が、一種のなつかしさと共に還つて来る。我々は――少くとも自分は氏によつて、「驢馬の子に乗り爾(なんぢ)に来る」人道(ユウマニテエ)を迎へる為に、「その衣を途(みち)に布(し)き或は樹の枝を伐りて途に布く」先例を示して貰つたのである。